芹洋子の夫の死亡原因や娘は!?記憶喪失となった事故とは!?
こんにちは、やーまんです。美しい歌声で現在も歌手として活躍中の芹洋子さん。26年前の交通事故で記憶喪失になりながらも、家族の支えで歌手活動を続けてこられたそうですが、所属事務所社長であったご主人を昨年亡くされていました。記憶を失うほどの壮絶な事故とは。そして芹洋子さんを支え続けたご主人や現在もマネージャーとして寄り添っている娘のアミさんとはどんな方なのでしょう。
プロフィール
芹洋子(せり ようこ)
本名 伊東洋子 生年月日 1951年3月10日(67歳) 出身地 大阪府東大阪市 所属 サンミュージック |
小学生の頃よりテレビに出演し、歌謡コンクールなどで好成績を残していたという芹さん。
1969年、『野に咲く花のように』でメジャーデビューします。
『四季の歌』『坊がつる讃歌』などヒット曲を生み、1978年「NHK紅白歌合戦」に出場。
NHK「みんなのうた」の楽曲や数々のコマーシャルソングなどを担当し、”コマーシャルソング女王”と呼ばれていたそうです。
幼稚園や保育園の卒園式での定番ソング『思い出のアルバム」や卒業式の定番『旅立ちの日に』を歌っていたのも芹洋子さん。
芹さんは1981年に所属プロダクション社長と結婚。
1982年に長女を出産しました。
1992年に交通事故で記憶喪失となってからも家族で支え合いながら歌手活動を続けて来られましたが、2017年にご主人が他界。
2018年にサンミュージックプロダクションへ移籍し、現在も歌手活動を続けています。
夫の死亡原因は!?
芹さんは1981年に所属プロダクション社長・伊東佳男氏と結婚されました。
結婚後も芹さんの歌手活動を支え続けたご主人ですが、昨年2017年8月14日に亡くなられています。
享年83歳。
その時芹さんは66歳ですから、17歳の年の差夫婦だったのですね。
死亡の原因は大腸がん。
2016年に大腸がんを発症し、手術で取り除いたのですが、肝臓に転移していたことが発覚。
抗がん剤治療を受けつつ、芹さんの現場に立っていたといいます。
しかし高齢ということもあり、抗がん剤治療を続けることが困難となったそう。
そのまま闘病生活に入り、復帰の願い叶わず亡くなったそうです。
芸能プロダクション社長とはいえ、芸能人では無い為か画像は見つかりませんでした。
あくまでも裏方に徹していたのかもしれません。
ご主人亡き後は娘のAMI(アミ)さんがマネージャーとして芹さんのサポートを引き継ぐことになりました。
娘AMI(アミ)はマネージャーで役者!?
芹洋子さんの一人娘・伊東亜美さん。
出典:tv-asahi.co.jp
1982年4月29日生まれ(36歳)
高校生の時に作家を志した亜美さんは、大学時代にシナリオ、文学、心理学などを学び、卒業後に芸能界入り。
声優や役者などの活動をしていたようです。
ただそちらの方は映画のエキストラや舞台の端役などであまり芽が出なかった様子。
AMI(アミ)さんのブログのプロフィールには、高校時代に目指していた作家の夢も継続中となっているので、やりたいことが多すぎるのかもしれません。
そして芸能活動と併行して芹さんのマネージャー業も行っていたようですね。
芹さんのスケジュール管理は全て伊東佳男氏が行っていたということで、存命の頃は亜美さんが病床から手帳と携帯を盗み出し、仕事をしていたとか。
現在は亜美さんがマネージャーとして全て管理しているようですね。
記憶喪失となった事故とは!?
歌手として順調に歩んでいた芹さんに起こった大きな出来事。
それが1992年の交通事故でした。
仕事を終え帰宅していた芹さんは、信号無視をしてきたバイクに跳ねられたのです。
右頭蓋骨骨折。
意識不明で集中治療室へ。
奇跡的に一命をとりとめたものの、外傷性くも膜下出血により記憶喪失に。
自分が何者かも、家族のことも、歌手であったことも、自分が歌っていた歌もわからなくなったといいます。
怪我の状態が酷かったため、当時小学2年生だった娘の亜美さんには事故のことは知らされなかったそうですが、突然母親が帰らなくなったこと、ニュースを見た同級生から「お母さん死んじゃうんだって?」と聞かれたことで、とても不安になったと亜美さんは語っていました。
亜美さんが初めて芹さんに面会した時、自分がわからないことよりも生きていてくれたことが嬉しかったとか。
周囲の温かい言葉で徐々に記憶を取り戻し、”復帰コンサート”を目標に懸命のリハビリで歌詞などを一から新たに覚え直したとか。
今でも一部の記憶は残っていないといいます。
芹さんは事故により記憶が一度真っ白になってしまった。
だから今は周囲の力を借りて第二の人生を送っているそうです。
そんなに壮絶な体験をしていたとは思えないほど輝いていらっしゃいます。
まとめ
壮絶な事故の後も公私共に支えてくれたご主人を亡くし、計り知れない悲しみを抱えたであろう芹さん。
しかしその悲しみを癒やしてくれたのも、事故による後遺症からの回復を後押ししたのも”歌”だったようです。
歌手は芹さんの天職だったとしか思えません。
これからも癒やしの歌を届け続けてほしいです。
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